小丸屋住井の歴史
公家であった住井家は、菩提寺である天台宗長厳寺のもとである比叡山に二百年。その後菩提寺は浄土宗長厳山常安寺となり、京都・黒谷に移り、その地で四百年。そして、1570年頃には伏見・深草にお寺が移った際、ともに深草に移転したと伝えられています。住井家の歴史は千年以上と推測されるわけです。
伏見の深草は当時は公家の別荘地になっており、あたりには真竹の竹藪が多くありました。その当時の帝より「真竹を使ってうちわづくりを差配せよ」と命を受けたというのが、うちわの仕事を始めるきっかけになっており、今なお続いています。天正年間(1573–1592年)には、こうして作られたうちわが「深草うちわ」として誰もが知るものとなっていきました。
深草うちわの由来が書かれた、六代目住井音五郎「深草団扇由来紙」
当初住井家は、帝の命の通り、公家として「差配」しており、深草の地元の方々に竹を伐採してうちわにする作業をお願いしておりました。その後、このうちわに人気が出て、寛永元年(1624年)頃より、差配だけでなく、製造をするようになり、このときに「小丸屋」という屋号がつけられました。公家に始まる住井家の歴史は千年が数えられますが、うちわを作る小丸屋はここが創業となるわけです。
小丸屋住井のうちわを売る「団扇売り」の浮世絵 鳥居清倍画
住井家の先祖は、公家のなかでも特に歌を詠むのを好んでいたと伝えられています。その雅号を「小哉」としていましたが、その「小」に、公家の一人称である「麻呂」をつけたのが屋号の由来です。「麻呂」は「丸」とも書きましたので、その結果「小丸屋」となったと伝えられています。
公家として歌を好んだ住井家の当主は、同じく深草の地に庵を置いた日蓮宗の高僧・元政上人(1623–1668年)とは深く親交を結ばせていただいたようです。親孝行で知られる元政上人が、自分の両親をあおぐため作ったのが、棗(抹茶を入れる茶器で楕円形をしており、その形が植物のナツメの実に似ている)の形をした「元政型深草うちわ」でした。このうちわは江戸時代に京の土産として大変に人気となりました。
拾遺都名所図会「深草の里 団屋店」
天明7年(1787年)に刊行された「拾遺都名所図会」には「深草の里 団屋店」として、賑わいを見せる小丸屋の店先が描かれています。そこには「深草の少将団安ければ 京の小町に買いはやらかす」と書かれています。「深草の少将」は、小野小町のもとに九十九夜通ったが、もう一夜で果たせなかった伝説の悲恋の人として有名ですが、その悲恋の主人公ですら、ついつい買って京都の娘にプレゼントしてしまうくらいだ、と言っているわけで、当時の深草うちわの人気のほどが偲ばれます。
四国で有名な「丸亀うちわ」や、岐阜市の工芸品である「岐阜うちわ」も、元を辿れば住井家の先祖がその地に伝えたもので、うちわの製造技術は深草の地を中心に、全国に広がったということがわかります。